宮城県立宮城野高等学校
講演
2011年7月2日
この会にお招きいただきまして、斉藤公子校長先生、PTA1年次委員長太田信江さん、年 次主任であられる千葉睦雄先生に心から感謝申し上げます。
高校1年生のご両親のためにお話しをするのですが、まず始めに、生徒の心のケアとご両親の役割、生徒の大学受験の準備、この準備の生徒と両親にとってのプレッシャー、それに対する対応の仕方、そしてまた大震災に対する立場の取り方などを50分ほどお話しして、その後、質疑応答をし、また皆さんとお考えを拝聴できれば、と考えております。
生徒の心と親の役割
皆さんのお子さんたちは高校に入ったばかりですので、15歳か16歳だと思われます。ご両親はお子さんに対して様々な関係をお持ちだと思います。良好な関係もあれば、それほど良好ではない関係、あるいはどちらかというと無関心、あるいは薄い関係もあるかと思います。特にお子さんたちの年齢を考慮に入れますと、彼あるいは彼女たちの成長は親たちにとってなかなか接近できない部分もあるというのが実情ではないでしょうか。なぜかと言いますと、高校生としての3年間、子どもたちが自立する時期であります。自立するというのは親からは離れるということですから、この彼らが、離れようとする親たちに心を打ち明けるということはなかなかできないことなです。従って、子どもが親たちにとって謎めいてくることは当然のことなのです。このことは子どもたちが親から分離するということです。
ただ、この時期だからこそ、ご両親はそれなりの疑問を持たれることも当然だといえます。これまでは一所懸命お子さんの面倒を見ておられた。お子さんができるだけ支障なしに生活するよう守ってこられた。しかし、成長に伴って、子どもたちはどこか変わってしまった。お子さんは自分のことをあまり語らなくなった。彼あるいは彼女が何を考えているかわからない。親たちはこのような子どもを目の前にして、自分は何か間違ったことをしているのかな? 子どもとの意思疎通が難しくなり、これまでのように面倒を見たいと思っても、それが受け付けられないので、寂しい思いをする。しかし、このような思いは異常でも、問題でも、悲劇的でもありません。普通のことなのです。ご両親にしても青少年、あるいは若者の時代はあったのであって、それなりの仕方で親離れしてきました。ただ、それがだいぶ前のことですし、これまでどちらかというとお子さんを保護する役割をしてきたので、その時期のあり方に引きずられて、自分の親離れの体験を忘れてしまっただけです。
そこで私は私の知り合いで、北九州市の心療内科の先生、彼は森先生といいますが、彼が患者とのグループワークの中で確認したことを取り次ぎたいと思います。患者の年齢は15歳18歳まですが、彼らはこの時期の子たちを第2性徴時代の子たちといいます。性徴ということばの性はセックス、徴とは性格、キャラクターという意味です。つまり男の子であればひげが生え、体も大人らしくなってきます。女の子であれば乳房がでて、体つきもしっかりしてきます。彼ら自身の生き方、考え方は固まりつつあり、行動様式も一定の性格を表すようになります。この時期の子どもたちはまた、様々な形の心理的な障害を抱える場合もあります。森先生は心療内科の先生ですから、薬物も使います。子どもたちの抱いている憧れや、願いや、夢などを聞くことも多い。さまざまな心の病を持つ子も、勿論、彼らの年齢、彼らの成長段階に特有な能力を示します。若者たちは心の中に秘めている願いや能力をハッキリと表す。彼らができること、したいことは普段は隠れているけれども、それが機会を見つけて出てくるのですね。森先生は彼らの言葉に耳を傾けます。これは彼にとってチャンスです。
森先生はそのようなときに若者たちから聞いたことを昨年の夏、朝日新聞に「若者の心と体を見つめて」というタイトルのもとで掲載しました。それによりますと、若者たちはさまざまなことを話題にしています。親との関係について多くを語っています。その次は友達との関係です。学業も話題になります。恋愛や性についても語ります。私にとって興味深かったのは、若者たちが彼らの自立への憧れを語るということです。自立という言葉は様々な生活の領域で語られうるのですが、若者たちはこの言葉を、「親から経済的援助を受けずに、社会生活ができる」という意味で使います。彼らは同時に、この意味での自立を実現することはとてもむずかしいとも感じています。独立して社会生活をしたいという憧れと、同時にこれを実現することは難しいという思いが同居しております。これは心理的に障害を持っているから出てきているのではありません。障害を持っておろうが、健常者であろうが、自立への欲求とそれを実現することへの願いは高校生にとってトピックナンバーワンです。親に干渉されることは嫌であり、できるだけ早く自分自身の生活をしたい。あなた方の子供たちはこのことを望んでいる。その後、大学生になるとこの望みはますます強く大きくなります。自立への欲求とそれを実現したいという願望は人間を支え、地域を支え、ひいては国を支えるのですから、親はそれを認めてあげなければならない。お子さんの自立を実現したいという意志を強めてあげる必要があります。高校に入ってすぐさま三年後の進路を考えることにもなりますので、その際もこの欲求をサポートし、それを促進してあげることが望ましいと思われます。この考えについては後に展開することになりますが、その前に、森先生が第2次性徴後の若者たちの中に見出す基本的な欲求を見てみたいと思います。そして、必要であれば心理療法家としての私の観察や意見も付け加えてみたいと思います。
まず、私は自立欲求のほかに、森先生による、若者たちが持つという欲求、可能性あるいは見解を列挙しておきます。
(1)15歳以上の若者たちには「対等意識」、「人間はみな対等という意識」が属する。
(2)彼らは「自己の心身に自信を持つ」
(3)若者たちはそれぞれの仕方で「価値観を発達させる」
(4)彼らは失敗する能力と失敗の原因を追及する能力を身につける。
(5)若者たちは愛されるばかりではなく、愛する能力を伸ばす。
若者たちは自立欲求のほかにこれらの欲求あるいは可能性を持っているのですが、今日これらの欲求あるいは可能性を記憶することは必ずや、お子さんとのこれからの交わり方の助けになると思います。
まず、第1の「対等意識」「人間はみな対等という意識」ですが、これはいかにも若者らしい自覚です。わたしたち大人はどちらかというと、この平等観に疎くなっているのではないでしょうか。わたしたちは世の中で苦労している分だけ、どうしても持ち物や財産、才能や地位や権力によって自分をも、人をも測るという傾向があるのではないでしょうか。他人が持っているものを見て自分の弱さを感じて、恐れ入る。羨ましく思う。人間みな平等ということは言えない。人間がお互いにどの部分で平等であり、どの部分で差異、差別を語ることができるか、なかなかこれをはっきりさせることはできない。「君、世の中の人間はなァ、人はみな対等、みな平等であるとなんて思っていない。だから、君もそんなことを考えないで、力を伸ばして、他の人々を追い抜き、金持ちにならなければならないのだ」、「ともかく他人に対して有利な立場を選んで、それに固執するのだ」、このようなことを子どもたちにおっしゃるのではないでしょうか?ところが、財力や才能、権力の有無にかかわらず、1人の人間として遠慮することなく付き合えることが対等です。我々は一度、どのような条件のもとでなら、競争意識は正当化されるのだろうか?と若者たちに倣って、問うてみる必要があるかもしれません。
次に、「自己の心身に自信を持つこと」森先生はこのことばにコメントして言います、「ありのままの自分を受け入れることで自信が生まれ、自分なりの人生を力強く歩んでいけるのです」と。森先生は「ありのままの自分を受け入れること」と「自信を持つこと」を結びつけます。ここで「ありのままを受け入れる」というのは何もしない自分、努力を放棄する自分を受け入れるというのではないでしょう。向上心は必要ですし、向上心があるから人生は面白いということでしょう。ここで言われているのは、長所があり、短所がある、 強みがあり、弱みがある。このような自分を信頼しようということです。高望みも、低望みもしない。自分に与えられているもの、これを信頼して、これをフルに活性化しよう。このようなことですから、基本的には他人をあてにしない。あてにしないことの帰結を丸ごと引き受ける。自分で長所は伸ばし、短所は日常生活に支障のないところまで改善する。このような生き方のことです。自分の現実から浮き上がったことをしないので、どんどん底力がつきます。自分の人格の核を成す部分に密着するので、失敗も成功もあまり眼中にない。それでいてすることなすことすべてが有効で、手ごたえがあります。「できる」感と、自分のしていることは有効なのだ、効果があるのだという感覚がいつもあります。自信とはこのことを言います。
第3に、子どもたちは、それぞれの仕方で「価値観を発達」させます。森先生は「価値観を持てれば夢中になれることが見つかり、それが生きがいにつながって行く」。ここで「夢中になる」「生き甲斐につながる」といいます。子どもたちは放っておいても価値あるものに対する感覚を発達させます。価値あるものを探し求めます。探し求める仕方はまちまちです。価値観は家庭環境によって、社会的通念によって、また個人的な傾向に応じて決まってきます。いずれにしても、15歳以降になりますと、価値観、平たく言いますと価値における好き嫌いがでてきます。嫌いなものは捨て、好きなものは選びます。好きなものには夢中になり、その中に生き甲斐を見つけます。
森先生が子どもたちの価値観に触れたことは有難いと思います。私自身、教育の現場でこのことを絶えず考えております。私の学生は18歳から22歳ですが、彼らの価値観が明確に形成されていないと、彼らはなかなか生きる意味、生きる目標、生きるエネルギーを見つけることができません。生きる意味とは自分が選んだ価値を実現するということです。価値観がはっきりしないとまた、目標、すなわち夢中になれる何か、生きがいの懸けどころを見つけられません。エネルルギーの持って行きどころが分かりません。欲求不満をおこしてしまいます。エネルギーはあるけれども、使われないままたまるばかりです。逆に、自分の価値観を説明できる子たちもおります。価値観は人生の羅針盤となり、人生全体を方向づけますから、この点、親たちは子どもたちを忍耐づよく見守る必要があります。
第4に、皆さんのお子さんたちは、程度の差こそあれ、探求心を発達させています。森先生の言葉を借りますと、「失敗する能力と失敗の原因を追求する能力」を身につけています。確かに、実際のこととしては失敗を恐れるあまり、何事にも挑戦しない若者は多い、多すぎます。しかし、このことは皆さんのお子さん達が15歳頃以降宿命的にこの能力を発達させ損なっているというのではありません。むしろ、本能的にこの能力を発達させようとする傾向があります。親がチャンスを捉えて、子どもにこの能力をもっともっと発達するよう促して上げられたら良いと思います。失敗できることは良いことなのだ、くらいに思ってあげる。子どもたちが失敗して叱るのはよろしくない。子どもたちは、自分はなぜ失敗したのか、失敗の原因を追求しています。失敗してしょげることもあります。その場合、親から責められることはつらいことです。親としてはおおらかな気持ちで見守ってあげる必要があります。それでなければ失敗の原因を追求する能力が育たないでしまう可能性があります。そうなりますと社会に出て、あらためてこの能力をつけることは子どもたちにとって負担になります。
第5の、そして最後の点は、子どもたちが「人を愛する能力」を伸ばし始めることです。子どもたちは愛する能力を幼少のころから持つのですが、この能力を顕著な仕方で伸ばすということです。森先生は彼の患者にかんして、「彼らの多くは愛されたいと願うだけで自らは人を愛そうとしない」といっております。彼らはさまざまな症状を通して「愛してほしい」と訴えているつもりなのですが、人を愛せない人間が愛されることはないのです。この場合、愛するという言葉には様々なニュアンスがあります。友達を受け入れ、彼らのことを思って何かをする、助ける、心の面でサポートをする能力を意味します。また異性に対する愛という意味もあります。この世界に男には女が、女には男がパートナーとなることは非常に意義深いことです。これをあなた方のお子さんは学び知って行きます。この愛するということがなかなかできずに愛されることを願うだけという現象があって、これは長期的にはこころの病に通じていく。愛することは健康なこと、愛されることを願うだけは病的だと森先生はいいます。お子さんが一定の異性を愛することができるようになったら、これは喜び祝うべきだと。
因みに、森先生は愛されることだけを願い、愛することのできない患者についていっています。「患者は総じて『できる』『できない』を連発しますが、私は『実行する』『実行しない』を用いるよう指導します。自分の意志を込めた『実行する』『実行しない』を口にする意味を考えさせ、自ら行動する大切さを分かってほしいからです」と。
私はここまで「自立」志向をし始める年齢のあなた方のお子さんたちが、同時に身につける5つの能力についてお話してきました。同時に、親としては、子どもたちがこれらの能力をつけていくプロセスをありのままに見つめてあげてほしいといいました。見つめるといっても、これは難しいことでもあります。見つめてあげているつもりで、結局は子どものことを何も理解せずに終わることがしばしば起こるからです。その結果、子どもは自分の両親は自分のことを何も分かっていないのだ、と思い、親に話そうとしない、親とコミュニケーションを取ろうとしないことが起こるのです。森先生も、親達が子どものことを理解していると言っていながら、全くそうなっていない場合のことに触れております。そのようなことがあった場合、同時に子どもと母親を呼んで自分の目の前で両者に会話を促すことがあるといいます。子どもは自分の伝えたいことを母に話しますが、彼女はその話の内容を聞いて自分が子どものことを分かっていなかったことを告白する。このようなことです。ですから、見守るというのは逃げることではなく、できるだけ会話をするということでもあります。一方では距離を保ち、他方では会話する。着かず離れず、です。これはお母さん達も、お子さんと同じ年齢の時期があったこと、その時期をそれなりに消化しながら今日まで進んできたことを思い出していただければ、できることだろうと思います。
大震災と原発事故と勇気づけ
さて次に、私は学校生活における心のケアの問題、特に子どもたちの現在の生活のどの部分にケアの焦点を当てるべきかについて私の考えることを皆さんにお伝えしたいと思います。申し上げるまでもなく、現在、東日本大震災のあと生活が突然変わったという事態に直面しております。家屋の喪失、職場の喪失、学校の環境の変化、そして何よりも家族や知人の喪失と悲しみ。自然というものが、その一部である我々を襲い、我々の生活とその風景を一瞬にして変えてしまった。これにともなう子どもたちの心のケアの問題があります。こともたちは喪失の体験を消化しようとしております。ここでこのことの詳細を申し上げることはできませんが、基本的に復興、とくに経済復興を急ぐあまり、子どもたちの、あるいはわれわれ大人たちの心の回復が等閑にされる危険があることを指摘したいと思います。こころは一面機械のようなものでして、弱った部分、壊れた部分を無視して前に進もうとすると、その部分は全面的に壊れてしまうということです。必ず、後遺症が残ります。しかも、回復のための時間をとっても、その時間の速度は非常にゆっくりとしたものであることを思わされます。国の政策、地域行政の政策、個々の学校の政策など難しい問題があり、復旧、回復、進歩に焦点を当て過ぎますと、子どものこころの中の消化されていない部分が後に痛みとなって恒常的に子どもたちを変えてしまうことになります。この点、特に先生や親たちは心すべきだと思うのです。あれだけの大震災だったのですから、子どもたちの心にそれだけの影響があってよい、それだけの影響があるべきだ、ということです。なければおかしい。ものにはものの、心には心の法則があり、それに従うこと。そのための子どもたちの自由を認めてあげること。子どもたちが大震災を整理するなかで、体調の変化が起こる場合がありますので、ご両親はそれに気をつけてあげることです。大人も子供も、ストレスのために身体の芯に疲労感や鈍い痛みを感ずる場合があります。ほおっておくと心不全に通ずることは知られていますので、大事を取る必要があります。2日ほど前のニュースで、心不全で亡くなる方の数が震災以前の三倍以上になったことが報じられました。
このたびの震災でもっと厄介なことは地震と津波が福島の原発事故引き起こし、この事故の収束のめどが立っていないことです。それは政府と東京電力の認識によると、天災ではなく人災であるということです。数日前のニュースよると東電を始め7つか8つの電力会社が株主総会で電力発電所の継続を決議したこと、そして政府がこれを支持したこと。これで日本の将来の電力エネルギー調達の方法が長期的に決まりました。福島原発事故は、25年前のロシア・チェルノブイリでの原発事故に匹敵する世界最大級のレベル7の事故だったこと、福島原発から放射能が空中に、そして海に放出されていることは事実としてあります。IAEA(国際原子エネルギー機関)は日本政府の情報開示が著しく劣悪だったことを指摘しております。昨日のニュースによりますと、政府は福島県民の体内被爆調査の実施を宣言いたしました。学校のグランドの汚染度が高いままであることを聞いております。昨日の朝日新聞によりますと、福島氏に住む6歳〜16歳の10人の尿を調べたところ、全員の尿から放射性セシウムが検出されたとのことです。他の場所への波及に関していえば、風向きその他の気象条件により、東京都の一部に異常に高い放射能の蓄積が確認されています。震災地のヘドロそして原発施設内のヘドロの処理方法についても不安材料があります。福島沖からおなじく異常に高いストロンチウムという放射線量が計測されました。それが自然消滅するまで30年ほどかかることも発表されました。政府も福島原発で放出された放射能が太平洋を渡ってアメリカ西海岸に渡った場合の放射線の影響の試算をしております。原発事故が日本全土及び世界に及ぼす影響は計り知れません。
このように原発事故の遺したものは地震と津波の遺したものとはその性格を異にしております。放射能汚染は空間的に無限に広がり、時間的にも我々の寿命との関連で測るなら、殆ど無限に近い広がりを持っております。まさにこの点で私たち、私たちの子どもたち、そして私たちの孫達にも深刻な影響を遺します。私個人的にもこの原発事故には重いものがあり、それが起こって以来ストレスが止まらない状態です。私は25年前、チェルノブイリの原発事故が起こったとき、それをドイツの中央部のある町で体験いたしました。チェルノブイリから数千キロも離れたギーセンという町で原発事故による放射能を経験しました。その町の役場から土地の表面を3センチとか、5センチ削ることを命ぜられました。そのようにしましたが、削った土を何処に持っていくこともできず、庭の隅におきました。翌年、その近くの地面に栽培したトマトが異様に大きかった記憶があります。このチェルノブイリの原発事故の影響は今日においてもドイツの各地に残っており、例えばバイエルン地方のイノシシの肉は25年後になっても食べられない状態です。なぜならイノシシのエサとなるキノコは放射能によって汚染されており、それを食べるイノシシを汚染に巻き込んでいるのです。また、私がお世話になっていた家主さんは、彼の職業がら屋外で仕事をしている時に、ドイツ国内の原発事故で体内被爆し、その結果20年ほどして53歳で亡くなり、同じ時に被爆した彼の同僚も殆ど時を同じくして亡くなりました。
その頃も、今も、原爆の凄さを感じております。原発の処理はこれから30年、50年の時間的経過のなかで整理されるしかないと思います。整理と言っても、福島原発事故の影響の地理的な意味での拡大はこれからのことなのです。このようななかで若者達の心のケア、われわれ大人たちの心のケアを、今日初めて始めるということなのだと思います。これは家庭の問題であり、学校の問題であり、会社他の職場の問題となって現れるに違いありません。これについては目下不安があるだけで、実際の対策はまったく行われていないといってよいのです。
私個人は、心理療法家としての社会的責任を果たすために、月に1回、私のロゴセラピー&実存分析研究所において「東日本大震災から元気を取り戻す会」を市民に提供して、この宿命的な放射能汚染とともに生きる可能性を探っております。「放射能汚染と共に生きる」といういいかたは妙な表現のように思われますが、多分、放射能汚染とどう向き合うかという問題はこれから益々重要な問題になるだろうと思います。若者たちはこれから中学高校においても、この問題を素通りできないと思っております。宮城県においてもすでに4か所の牧場の汚染があり、牛にその土地からの牧草を牛に与えてはいけないということがありましたので、他人事ではありません。すべてこのような事にも拘らず、若者たちに生きる勇気を与え続ける必要があります。
学習の場としての学校と勇気づけ
学校は学習の場所です。高校の場合、生徒は3年後進学するため、あるいはその他の道に進むために勉強します。その際、学校は生徒にとって大きな役割を果たします。学校が生徒の学ぶことがらを決定し、学ぶ速度も決めます。学生や両親が学習の量と質と速度をきめるのではない。ですから、学習するということは生徒のプレッシャーになります。生徒がこのプレッシャーにどう対処するかが問題になります。千葉先生が私に下さったプリントによると、学校は生徒の欠席や遅刻、早退を少なくするよう呼び掛ける。そして、「家庭での心身の自己管理の重要性を指導する」これはどういうことでしょうか? 親たちは家庭の中で息子や娘が自分で心と身体を管理するよう指導するというのです。学校で規則的に勉強できるために、息子や娘たちは心も体も調整するということ。生徒は家で十分睡眠と栄養を取り、学校にいる時に勉学に励むよう心を配る。生徒は学校において勉強するための条件を親の助けをかりながら満たす。それは生徒の自己管理、自己責任であるというのです。私は想像するだけなのですが、学校としてはどうしても生徒の親たちにこのことを確認する必要があるのでしょう。
私自身大学では例えば、学生が毎日5時間、週に5日間アルバイトをすることに気づくことがあります。その背景には経済的事情があるかもしれないと思います。特に、震災以後は家計の変化のためにアルバイトをするよう強いられる場合があります。ですから、勉学を優先しなさい。アルバイトを止めなさいとはいえないわけです。しかし、他方、学生はこの場合、客観的にいって勉学できないことも事実です。最終的には勉学のために大学に入ったのか、それともアルバイトをするために大学に入ったかが分からなくなる。しかも、アルバイト先で世の中の人間をみる。彼らは必ずしも親切ではなく、学生は神経を使う。学生の事情は分かるけれども、アルバイト、あるいは過度のアルバイトは学生にとって良いはずがない。高校1年生のころからアルバイトをしなければならない子どもたちはどのくらいいるのだろうか。いずれにしても、自分の心と身体の状態に気を配り、勉学のための体制作りは生徒の自己管理の範囲内に入っていることはうなずけます。親達も生徒が心と身体の自己管理を行うための手伝いをする。これは是非ともしなければならないだろうと思います。具体的にどうすればよいのか?
ここで私は皆さんに、若者たちが第2次性徴に対応しながら、行う5つのことを思い起こして戴きたいと思います。彼らが「対等意識を持つ」、「自己の心身に自信を持つ」「価値観を発達させる」「失敗する能力と失敗の原因を追求する能力を発達させる」「人を愛する能力を伸ばす」親はこの5つのことにおいて子どもたちをサポートする。お子さんたち、高校1年の生徒たちは彼らの心と身体を自己管理できるようになる。このようななかでお子さんたちがどのような進路を希望するか、あるいはどのような大学に入って、どのような専門を選びたいかを決め、目標を達成できればよいと思います。親は子供ができるだけ良い大学や学部に入るべきとして、子どもにプレッシャーをかけることはしない。親が子供にプレッシャーをかけないで、子どもが彼あるいは彼女の選ぶ目標を達成できればよいことである。子どもが親の目から見て、十分良い大学や学部に入らなくても、親は子供とともにそれでよしとする。それで立派である。
この進路および進学の他にもうひとつ、生徒の基本的生活習慣の確立に関して注目すべきことが千葉先生からいただいたプリントの中にありました。「家庭との連携を密にし、不登校傾向や問題を抱える生徒に早期に対応する」ここで不登校傾向を抱える生徒に言及されています。不登校はやはり、話題にする必要があるのでしょう。ここではこの問題を詳しく論ずることはできませんが、上に述べた若者たちの5つの能力を伸ばすことによって解決できる問題だと思います。言及された、自立の基盤を為す5つの能力には若者たちを不登校から守る力があります。子どもが不登校的傾向を見せた場合、この5つの能力を伸ばすよう注意したら良いと思います。学校という場所はすでに申しましたように、生徒が学習して知識を増やし、上級学校あるいは社会に出ていくためにあります。これを果たしたら、学校はその課題を果たしたことになります。学校は不登校を治す責任を、それがいじめに起因するものでない限り、負いません。不登校はむしろ主として家庭の問題、親の子供に対する仕方問題です。親たちはそれ故、不登校の解決を学校に求めないことの方が賢いと思われます。この点、このたびの大震災から学ぶことがあります。引き籠っていた若者が大震災に遭遇して、避難所に収容されました。彼はそこに滞在しているうちに、これからは引き籠りを止めようと思った。人の役に立つことをしたい、と言っていました。私はこれをNHKの番組で観ました。愛されることを願い、その実現を待つのではなく、自分から愛する人間、奉仕する人間、自分を犠牲に出来る人間になりたいといっておりました。
ご清聴ありがとうございました。あとの時間は皆さんの御意見を伺います。
