弊研究所が提供するロゴセラピー&実存分析について
- ロゴセラピー&実存分析は元来健康な人たちの為のものである -

心理療法のウィーン第3学派

安井猛

弊研究所長
安井 猛教授

時にはふーっと息をつき、気持ちが軽くなることも我々の経験の範囲内にあります。
そのような瞬間の上に人生を築きあげることはできます。

日本ロゴセラピー&実存分析研究所の基本的な考え方

弊研究所はヴィクトール・フランクル(1905〜1997)の開発したロゴセラピーと名づけられた心理療法を紹介し、かつそれを展開しております。
人間は意味ある人生を送りたいと思い、そのために意味への意志を強めるよう努めます。この意志は人生のある時点において人間の存在に付加されるというのではなくむしろ、人間の存在に直接的に属していて、人生の経過の中で成長すると考えられます。意志の自由とその能力を発揮できることは誰でも願うことであり、意味への意志はこの意味では人間という実存の行動の中心的動機となります。

この意志が抑圧されると、さまざまな形の心理的障害が発生します。意味に方向づけられた心理療法であるロゴセラピーはこの障害を克服するための道を用意いたします。それは創造する価値と体験する価値と態度する価値という3つの価値を実現する道です。フランクルはこの3つの価値実現の通路を通って生きる意味の充足は可能になるといたします。フランクルのロゴセラピーは人間には本質的に自分自身の中にこのような価値実現の為の資源が備わっているとしております。このような意味ではロゴセラピーは元来健康な人間の為のものであるといえます。

フランクルのロゴセラピーはまさにその楽観主義のゆえに、死と罪責と苦しみという悲劇的三元とかかわる道を示唆します。これらの一見越えがたい壁は、それに対する態度を限りなく変えていくことによって気にならないものになりえることを悟らせ、それを超える勇気と希望と強さを与えます。変えることのできない運命に直面して限りなく態度の仕方を変えながら運命に打たれ強くなります。ロゴセラピーはこの意味で深い慰めを湛えております。意味ある人生は限りなく静かで力強い人生になります。

ロゴセラピーは明確な輪郭を持った人間像を提示します。それはまず身体的次元と心理的次元を持つとされます。心理的とは認知的および情緒的ということです。人間はこのほかに精神的次元を持っており、そこで起こることは身体的および心理的次元に影響します。価値と意味を意志すること、この意志により自己から距離を取り、それを超えることができることは精神的なものの働きであり、人間を宇宙の他の存在者から区別します。フランクルは人間におけるこの精神的なものの次元の上に彼の心理療法を基礎づけました。

弊研究所は上記のロゴセラピーの古典的な形態とフランクルの愛弟子たちによるそのさらなる発展も同時に扱っております。これは弊研究所の特徴のひとつです。すでにフランクルの生前および逝去後の、それぞれ固有な分野の発展には注目すべきものがあります。

弊研究所で何を学べるか?

弊研究所は社団法人ドイツロゴセラピー&実存分析協会会員であり、その医療/心理療法、教育/社会教育、神学/哲学そして経済/労働世界という4部門に接続しております。それ故、弊研究所で学ぶ人々は国際的な水準のロゴセラピー&実存分析を学ぶことができます。さらに、弊研究所は古典的なロゴセラピーと日本の文化的、精神的な伝統との関わりの中に位置づけることを試みております。このことは弊研究所長自身、ドイツにおける彼の23年間にわたる学問的研鑽と職業生活を通して開始し、帰国後今日まで十数年間にわたり実践し続けております。またロゴセラピーを修めることは日本人か大事にしてきた自然と人間観、世界および宇宙観を改めて評価し、これからの生き方の中に活かすことに通ずることを確信しております。それぞれ個性を持った日本人の心性の良さとドイツ語圏で生成したロゴセラピー的心性の相乗効果を目指すことはうまくいくかもしれません。このようにしてロゴセラピー&実存分析を学ぶことをとおして日本人として自分達の良さを見つめること学ぶことはあります。このことは弊研究所において様々な形で実際に起こっております。

以上のことを背景としながら弊研究所で何を学べるかを改めてまとめますと、以下の諸分野あるいはテーマ等を挙げることができるでしょう。

  • 建設的な人間像
  • 心理的健康を促進する生活スタイル
  • 人格形成の重要な諸領域
  • 危機、神経症および精神病との理想的なかかわり方
  • 自分と他人の生活に相応しいコミュニケーション・スタイル
  • 精神的指導。教育および自己教育
  • 心理療法、相談の為の様々な方法
  • 経済および労働世界における働き方のコーチ

セミナーや研修ではこれらの諸問題をもっとも新しいロゴセラピー内外の研究成果と共に学ぶことができます。

ロゴセラピスト教育研修

弊研究所は未来のロゴセラピストを、常時、養成しております。
ロゴセラピスト教育研修の最初の段階は全4ゼメスターから成ります。扱われる領域は次の通りです。

第1ゼメスター「ロゴセラピーにおける人間学 - 人間の本質」→人間学 第2ゼメスター「人格形成としてのロゴセラピー」→危機の予防 第3セメスター「心理的障害をなくするロゴセラピー」→心理療法 第4セメスター「困難な障害に随伴するための心理療法」→苦悩と付き合う

ロゴセラピスト教育研修の第2段階は方法論演習ですが、これは全2ゼメスターから成り立ち、ロゴセラピーによる心理療法が要求する方法を演習形式で学ぶことができます。

自己を超越できる、自己から距離をとれる、意志の反抗力の強化する、感謝する、信頼する、望みを捨てない能力、ユーモアそして人間が精神的存在であること理解します。

ソクラテス的対話のほか、反省除去、逆説志向、態度変容というロゴセラピーにおいてすでに定着した3つの方法を使えるようになります。

その他、すでに心理療法家の共通材であり、ロゴセラピストも利用可能な基礎的技法を学習いたします。

現在、第1ゼメスターが提供されております。それから始めるチャンスです。ご希望の方はご連絡ください。方法論演習から始めてロゴセラピスト教育研修に入ることもできます。

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経済と労働世界におけるロゴセラピー

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ロゴセラピーによる各種の相談

次のような場合、相談を受け付けております。

  • 価値に焦点を当てた人格形成を行いたい
  • 危機状況における対話と随伴がほしい(例えば、悲嘆、喪失体験、病気診断結果の為のショック、事故および病気の結果など)
  • 決断して人生に新しい方向を与えたい
  • 生きる意味に焦点を当てて生き方のコーチングをして欲しい
  • 夫婦および家族の生活を考えたい
  • 学校及び職業生活における葛藤と問題を解決したい
  • 心理的およびさまざまな原因による心身的変調を整えたい
  • 個人的に、あるいはグループでのスーパービジョンをしてほしい

相談ご希望の方は「お問い合わせ」からお申し込みください。

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安井 猛

ロゴセラピー

ロゴセラピーとは意味に焦点を当てた心理療法です。その開発者で、国際的に名を知られた精神医学者および神経学者ヴィクトール・フランクル教授は人間がその本質的に価値と意味に方向づけられていることを彼の考えの中心に据えました。意味への意志が継続的に欲求不満に陥りますと、人間は均衡を欠いた状態に落ち込みます。そこから様々な、阻害された生活および関係様式、そして神経症的障害が出てきます。仕事を喜べない、うつ的になる、生活疲労、さまざまな依存症、無感動、退屈、虚無的な物の見方、精神因的神経症障害等々です。

ロゴセラピーによる心理療法家はクライエントを自由にして、自分の人生の中に意味を見つけ、それを実現するよう促します。人間は身体的、心理的次元を持っていますが、それを超えて精神的次元においても成長し続けられることが理解されます。精神的な諸能力を発揮することによって、自分自身との、他人との、自然と芸術的な宇宙との関係を整えていくことができます。

研究所は職業随伴的な教育において理論的にも実践的にもこのような心理療法の基礎能力を取り次ぎます。同時に他の心理療法学派の重要な認識も取り次ぎます。その際、研究所はそれが取り次ぐ能力や認識を国際的に最高の研究水準に維持するよう努めております。

心理療法としてのロゴセラピー

ロゴセラピーは原理的に資源に方向づけられた心理療法です。そこでは勿論、障害、特に精神因的な神経症の除去も問題になります。しかし、障害を取り除くことだけが問題なのではありません。障害はロゴセラピー的理解によりますと、生きる意味が長い間継続的にハッキリしていなかった、あるいはそれが欠如した結果ですので、クライエントはロゴセラピストとの対話を通して、自分を再び意味を感ずる存在として理解するようになります。

次第に無意味感から解放され、意味に満たされた人生を送ることができるという実感を持つことができます。様々な意味で困難な生活へ自分を開いていく、細かく問題を見ていく、そうするなかでそれと折り合いをつけながら生きる手掛かりを得ることができます。

それぞれの人間は1つには、特殊な素質と能力を持つ人格であることが分かります。素質を磨き働かせることができれば、それは良いことでしょう。能力の限界を認識することがあり、それは失望の種になるかもしれませんが、限界内の能力をフルに働かせれば、それは最高です。限界が限界ではなく実は、それ自身何かすごい働きになります。われわれにあらかじめ与えられ、我々がそれに結びつけられ、責任を負う生活状況を受け取っていく。ある時はそれを作り、ある時はそれを味わい、あるときはそれをただ耐え忍ぶだけ。何れにしても手答えを得ます。

クライエントが再び人生のテーマの中心を獲得する限り、彼の心理的障害の充満は消えます。このことは彼、あるいは彼女の心理療法的経験に対応していす。人生のテーマの中心というのは、クライエントの個人的な能力と、彼の具体的な生活の状況の要求的性格に対応する生活の課題ということです。生活の課題を克服するということは、人間が、実現することがただ彼からだけ要求されているような仕方で意味の可能性を実現するということです。

決定的なことは、クライエントが主として「私の人生は私に何をもたらすか」という問いによって自分を導くのではありません。むしろ「人生はいま、この具体的な状況においてよりによって私から何を期待するか」という問いによって自分を導くことです。従って、その都度の生活の状況の、意味に方向づけられた挑戦的性格に対する感受性を強めることが問題なのです。

ロゴセラピーと哲学/倫理

ロゴセラピーは「人間とは何か」という問いの探求とともに生まれました。その創設者は人間そのものを探求する学問を深め、人間像と人間の生活の中に入ってくる世の中との関わりを考えました。なぜなら、生きる意味は世の中のほうから人間に与えられてくるからです。

古来、生きることの意味は哲学においても問われていますが、ロゴセラピーの創設者はとりわけ意味と価値の問題を追求した哲学者たちと対話しました。このような経緯からロゴセラピーと関わり、それを学び知ることは自分について、世の中について考える道筋を学び知ることです。このことは、ロゴセラピーは我々が日常から出ていくということではなく、日常の中へ入っていく、徹底的に日常の中に入っていくことを意味します。自分と世の中についてはいつでも、誰とでも話すことができるようになるということです。これは人間の本来の姿に帰っていくということです。

人生にの中に入っていくといっても、もちろんそのための手掛かりがあります。ヴィクトール・フランクルはとくに、人間は人生のその都度の瞬間において不可避的に目標を問う存在であることに注目しました。目標が定まれば、それを実現するために自分自身の中にどのような資源があるかを認識でき、またそれを目標実現のために動員できます。自分の設定する目標に関しては、その意味と価値は問われます。よい、そして意味ある目標だけが努力する価値がありますし、そのような目標だけが心を満たすことができます。ロゴセラピーはそれゆえ、人生の目標をその意味性において検討します。フランクルは彼の有名な『夜と霧』という強制収容所体験に関する書物の中で、目標を持つことができた人々は強制収容所を生き延びる割合が多かったことを示しました。体力と運だけでは生き延びることは難しかったことを観察しました。このような意味で、ロゴセラピーは哲学との対話から利益を得るばかりではなく、生きることに手ごたえを感ずるようになります。

ロゴセラピーと相談

誰にしても、人間は運命の打撃を蒙り、苦しまなければならない時があります。職場やパートナーあるいは自分の生活のために闘わなければならない時があります。人生が突然、真剣勝負になります。この状態は比較的短期間で解決することもありますし、人生そのものが修羅場になる場合もあります。そのような場合は、普段はまったく心理的に問題のない人でも、一時的な相談を必要とすることがあります。

心理療法は意義深い障害、神経症、精神病、人格障害、心身症に関わりますが、ここでいう相談はしばしばカウンセリングあるいはコンサルテーションあるいはコーチングともいいます。相談は、心理的にまったく健康ではあるけれども、一時的に非常に難しい生活の状態の中にあり、危機的な状況を克服するために助けを必要とする人のためにあります。

生きていく中で、変わらなければならない時があります。変わるということはこれまでの生活の形を解消すること、そして新しい生活の形を獲得することとして現れます。このような時は相対的ではありますが、内的にも外的にも混乱に陥ります。この状態はなにか病的なものではなくまったく普通のことですが、相談によって変化の過程の緊張を緩和することができます。我々は今日、激しく変わる世界の中に生きており、個人の生活もこの変化のあおりを蒙りますので、相談の意義はますます高まってくるといえるでしょう。

さらにまた、少なからぬ人間は今日、自分の人生の中にどのような意味も経験できない状態に苦しんでいます。生活の新しい形を作り出したい。新しい、生き生きとした、意味に満ちた生活の可能性を探りたい。この欲求が満たされない状態をロゴセラピーの創設者は「実存的空虚」あるいは「実存的欲求不満」と名づけました。生活手段はあるけれども、人間を担ってくれる生活の中心が、意味と使命が欠けている。この状態は神経症的障害へと転化する場合がありますが、ロゴセラピストはこのような危機の中にある人々のために相談を提供しております。

ロゴセラピーと精神医学

ヴィクトール・フランクル教授は神経学および精神医学を専門とし、とりわけ内因性のうつ(メランコリー)と統合失調症という精神障害と対決し、「精神科医の信仰告白」という言葉を残しました。そしてそれは彼を注目すべき精神科医として有名にしました。つまり、彼は「人間が精神病に罹患し、その兆候を示したのちにもなお彼の完全な精神的人格を維持することを信ずる」といいました。このような信仰告白の背景には、一般に人格は精神的現象として、健康か、それとも病気かのどちらかであるという根強い考えがあります。このような考えに対してフランクルはいいました、「精神そのものは罹患できない。罹患することができるのは、人格をその精神性において顕現、あるいは表現する身体的器官である。人間の脳は羅患できる。脳は道具的機能を持つ。それは人格をその精神性において可視化させる道具であるにすぎない」と。フランクル教授はこのような考え、すべての脳の崩壊と狂いの背後に残る病人の完全な人格を知覚し、それに対応する形で患者と交わりました。病気の兆候にもかかわらず、この精神科医は主として患者のその都度の障害ではなくむしろ健康のままであったものを知覚し、それに接続し、それを強めることができるとしました。彼は問いました「私は精神科医として精神病患者と交わるとき、理想的にこの関係を形成するために何をすることができるか?」と。また「どのように精神病患者自身、理想的な仕方で自分自身と交わることができるか?」と。

上記のような「脳と精神」の関係に関する議論は現在まだ決着していません。今後、「精神科医の信仰告白」が自然科学的に支持されるかどうかを見ることは興味深いことでしょう。しかしまた、そもそも「精神科医の信仰告白」は自然科学的探究の成果によって基礎づけられるとすることができるか、そうすべきであるかどうかという問いは残ります。さらにまた精神病的障害を持つ人間との関連において医者と患者の理想的な関係を問うことも、精神病的人間の自分自身との交わりの問いもいまだ十分に議論されていないことは、ロゴセラピーの創設者の信仰告白に直面して言及に値するでしょう。

ロゴセラピーと労働世界

我々の社会のように高度に産業化された社会の人間にとって職業的同一性を持ちえるかどうかは我々の意味経験にとって決定的です。我々は意味深い仕事を持つことは非常に重要だと体験します。この理由から、仕事を失うことを根源的な破滅として体験することはまれではありません。

指導者と従業員の協働営業というシステムの中で、人はどのように意味深く仕事を組織できるのでしょうか?システムに参加するすべての主体が彼らの根本動機において「意味への意志」によって規定されてはいるが、場合によると意味に関する様々な考えを持つことを考慮に入れたうえでもなお、問題なく協働の営業システムを構築できるでしょうか?このロゴセラピー的な問いは重要です。企業構成員が相互に協力しながら働くことは ―彼らが、彼らの働きをただ単に短期的、部分的にではなくて、長期的、全体的に意味深いものと体験する限り ― 理想的です。

従業員は原理的に、企業の生産とサービス、営業における仲間との関係そして従業員の人格の発達において意味の経験することができます。人間がただ単にその個人的生活においてのみならず、職場においても意味の経験をすることができるかどうかという問いはますます重要な問いとして認識されつつあります。人間はその職業生活において一日の大部分を職場の同僚と過ごします。単に競争するばかりではなく、社会的連帯性と支持の中に意味を見つけることができるかどうかは生産性の向上につながるばかりか、個々の労働者の自己価値の感情の維持と強化につながります。今日、自己価値の感情の維持及び強化は職場における興味の喪失と燃え尽きの防止のために必要であることが分かってきております。ここにもロゴセラピーの有効性が証明されております。

企業において「指導すること」は原理的に意味に方向づけられます。それにたいして「マネジメント」は原理的に目的に方向づけられます。意味のある目標を達成するためには、目的にかなった仕事の工程のシステムは組織されなければなりません。マネジメントの課題は、与えられた目標を到達するための理想的な道を見つけることだといえましょう。弊研究所ではフランクル教授のロゴセラピーと、同様のウィーン出身のピーター・ドラッカーのマネジメントの相乗効果に注目しております。これは最近専門家たちの間で気づかれ始めましたが、これからますます論ぜられることでしょう。弊研究所はこの点において先駆者の役割を果たしております。

ロゴセラピーと宗教

洋の東西を問わず、心理療法はそれ自身の固有の領域を持ちますが、同時に宗教との対話を続けてきました。西洋では中世の後期からドイツ、フランス、スペインの神秘家たち、そしてプロテスタントにおいては特に19世紀の個人主義的な色彩の強い信仰の形が近・現代の心理療法の成立に貢献しております。日本においても近・現代の心理療法の成立と発展は神道や仏教の影響抜きにしては説明不可能です。我が国ではその開国から現代に至る精神史の中で宗教が複雑な形で負の遺産になっていますので、そして社会全体が宗教にさほど重要な社会的地位を与えていないので、心理療法と宗教の関係を論ずることは一般に好まれていないというだけのことです。

しかし、実は現在有力な日本的形態の心理療法は例えば浄土真宗や禅宗という仏教の影響を受けております。実際、どの国においてであれ、文化との関連なしに精神、あるいはこころの形と健康を追求することはできません。文化を無視する心理療法はあるはずはありません。重要なことは、両者の区別と関係を明らかにし、それを意識することです。

ロゴセラピーと宗教との間には両者が意味のカテゴリーに興味を示すかぎり、密接な関係があります。意味への問いは「神への問い」と直接に同一ではありませんが、意味への問いを常に前へ進めると、その時それは「神への問い」へ通じていくと考えられます。

フランクル教授によると、意味は3つの形で実現されます。創造価値を実現すること、体験価値を実現すること、そして態度価値を実現することです。3つの価値は元来、誰によっても実現されることができます。その原理となるのは「働くこと」です。創造価値、体験価値、態度価値という3つの種類の価値はそれぞれ人間が「働く」こと、何かを「すること」と結びついています。人は体験価値においては「働かない」、あるいは「受け身になる」だけ、あるいは「享受する」だけといいますが、体験することはそれ自身、「働く」こととの1つの形式です。

しかし、徹頭徹尾、作り出されることができず、単純に贈り物的性格を持つ意味経験も存在します。それが出来事になると、それは贈り物という出来事となります。宗教はそのような意味経験と関わっています。そこでは人生のトータルな方向づけが問題です。神学を含めて諸宗教はこの問題に対して答えを提供する試みだといってよいでしょう。

人間が人生の根元のことに対して基本的にどのように応答するかということと、彼がその応答の枠内でどのように日常を形成するかということとの間には対応関係があります。世界および人間存在の究極に関する解釈を分かち合う宗教と、個々人の人生の場面々々と交わる仕方との間には対応関係があります。人間は存在の究極的な根拠に関して意味深い解釈を生産するのではありません。むしろ逆に、彼は究極的根拠に打たれ、触れられ、規定されるのです。別言すると、信仰あるいは宗教は贈り物としての、恵みとしての性格を持つといえます。

ロゴセラピーと「医者による精神の教導」

フランクル教授に『医師による精神の教導』という本がありますが、彼によると医療者は不治の病を持った患者が彼の苦しみと向き合い、それと折り合うことができるよう導くよう良心によって義務づけられています。患者は益々生きる勇気を失い、敗北感を味わう、そして挫折へと運命づけられた人生を嘆くことがあります。そのようにして多くの心的エネルギーを失うことがあります。医者はそのような患者を放っておかずに、病と死に対する態度の取り方を変えて、それらを内面的に超えるよう導きます。

すでにみたように、古来、西洋の心理療法の創始者たちはそこに支配的だった宗教としてのキリスト教と、積極的、消極的を問わず何らかの仕方でかかわっています。フランクルはロゴセラピーを創出したとき、ユダヤ教やキリスト教と対決したことは周知です。このようなことと関連して、フランクルは彼のロゴセラピーの本質的な部分を言い表すために「医師による精神の教導」という用語を使いました。この用語の原型はユダヤ教やキリスト教において聖職者が行う精神の教導、すなわちパストラルケア(牧会)の中にあります。医療や医術は人生のトータルな意味探求の形としての聖職者による精神のケアとの類比から出てくるのだと、フランクルは考えたのでした。

弊研究所長も20年前後、ドイツにおいて聖職の経験を有していますが、その時の経験は彼にとって決して失われることのない宝となっています。聖職者は信仰による助けを動員しながら、信徒がその人生の困難な問題を乗り越えるよう指導します。彼はフランクルがロゴセラピーにおける教導をパストラルケアとの類比において理解したこと、その際に両者の区別をも認識したことは当を得たことだったと評価しております。

実際、人間は本質に自己を超越する存在です。それはただ単に水平的な意味における自己超越ではなく、むしろ垂直的な意味におけるそれでもあります。人間は彼の人生を無制約的な仕方で「方向づけるもの」を探します。そのために生きることが無制約的な意味経験を約束するような何者かを探します。どの人間の、どのような人生であれ、それはその無制約的主題の中心になり得るような方向づけを探します。

ロゴセラピーと教育

ヴィクトール・フランクルも、彼の弟子たちも共にロゴセラピーを教育に適用します。フランクルは人間を身体と心と精神という三次元的存在と見做しました。彼の教育論においても全体的人間が主題となっています。人間の尊厳は、彼が精神的存在であることに存するのであって、生命の長い短いには依存しません。若者たちの人格の尊厳を自覚することは重要です。子ども時代は単なる大人であることへの待機期間を意味するのではなく、それ自身の価値を持っています。若者たちは人生の意味を問い、実現するに値する価値を問います。生活のどの瞬間も無制約的に意味に満たされています。教育はこのことに対応して意味への欲求を顧慮し、彼らの人生の意味性を明らかにするものです。

教育はフランクル教授によると、知識の伝授であるのみならず、現在と未来に向かい、意味を発見する可能性を開きます。この両者を関係づけることは重要でした。フランクル教授の志を継続する人々の中には教育者の数は多く、彼らは学校教育に貢献しております。学生は知識と意味探求および実現との結びづきを認識することができれば、これは良いことです。青少年の家庭教育においてもロゴセラピーの基本的な考え方が採用されることは望ましいことです。子どもたちは長期的に見ますと、甘やかされることによってだけ幸福になることはできません。フランクル教授は青少年も創造的価値を実現できるし、精神の反抗力によって「自己中」や「ひきこもり」を克服できるとしています。

価値の危機と意味喪失の時代にこそ、展望のない将来を現在との積極的なかかわりによって克服するためには、ロゴセラピー的教育を利用する必要があります。意味を探求することは決定すること、敢行することです。それは緊張のない均衡志向と変化なき恒久的調和に終わるのではありません。若者たちは表現および葛藤能力を身につける必要があり、教育はこれに貢献すべきものです。

ロゴセラピーと人格形成

幼少期において経験されたものは意識下に蓄積され、それが時とともに人間の性格を形作ります。意識下に蓄積された幼児経験は後の生活にとって障害になる場合があります。その結果、自分自身と、他者との関わり、そして仕事への関わりは一面的に形成され、様々な個所で不安が現れてきます。不安が反復され、理由が分からないままさまざまな恐怖症が出てきます。それは長期的に持ちこたえられなくなります。

これらのことはとくに深層心理学において主題とされますが、ロゴセラピーにおいても不安の現象は治療の対象となります。ロゴセラピーは意味への意志の経験が無意識の領域においても蓄積されるとします。この関連において不安、あるいは様々な恐怖症から自由になるための技法を開発しました。反省除去、逆説志向、そして態度変容などがその技法の主なものです。恐怖症から解放されると、不安がなぜ起こったのかが患者自身にも理解されるようになります。人生は肯定的側面と否定的側面を持ちますが、この両方を全体をなすものとして受け取ることが肝要なのですが、それがうまくいかずに人生が断片的にしか体験されなかったということです。

ロゴセラピー的人格形成の目標は、我々が否定的なものと見做すもの、人生の脆さと死、失敗や悪などを人生の全体に属するものとして受け入れることです。否定的なものを受け入れ、それと折り合いをつけることです。これがうまくいきますと、これまで避けていたものを避けようとしないのですから、生活の全体が落ち着きます。落ち着いて人生の営みの細かいことまで観察し、大切にするようになります。人生には捨てるものは一つもないことを認識します。

意味を問う能力が活性化されますから、他者との積極的な関係を作ることができます。また、自分の能力をどんどん伸ばす気になれます。生活の中に価値あるものを見いだし、価値を中心に生活を再構成できます。価値ある目標を設定し、自分の人生の中に、また環境の中にそれを実現するための資源を発見し、それを使うことができるようになります。自分自身に対する評価が変わり、自分を肯定できます。自分を良い人間として受け入れることができます。人生そのものの肯定度が高まり、生きることは喜び、生きることは楽しみであると思えるとうになります。すべてこのような訓練を通して、恒常的に自己価値の感情を保持できるようになります。すべてこのようなことがロゴセラピーによる人格形成には属します。

ロゴセラピーと家族療法

家族療法はヴィクトール・フランクル教授自身ではなく、彼の弟子たちによってロゴセラピーの1部門として開発され、理論的にも実践的にも整えられました。その際、彼らはフランクル教授の人間学を適用しました。それによると人間は自由で責任を担う存在であり、価値と意味に方向づけられた自律的存在、すなわち人格であります。人間はまたそのようなものとして自分自身を超え、自分自身を他者へと開いていきます。このようなことが家族において起こると家族の成員は互いに人格として十分に成熟してゆきます。

ロゴセラピー的家族療法にとってこの家族の成員相互が自分自身を他者に開いていくことは決定的に重要です。そうでない場合には、家族の成員同士は互い他者を単に機能と見做すだけのことになります。本当の受け入れは不可能となり、葛藤は不可避です。互いに耳を貸さない、また本当の意味で話すこともなくなるので、葛藤は治まることはないでしょう。積極的に家族の他の成員に耳を貸す。相互に益を分かち合える。誰も、誰かの犠牲にならない。葛藤能力は必要ですが、平和能力を発達させることはそれ以上に重要でしょう。

今日、世の中で起こっていることは家族を直撃し、家族関係を混乱させます。家族は世の中から突きつけられる要求を処理できません。家族の成員は互いに理解し、互いに保護しあったりできなくなります。家族の1人の成員の弱さが、全家族の問題の火種になります。家族の意義自体が低減することがあります。ロゴセラピーに裏づけられた家族療法はまさにそこで有効性を発揮します。

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